「特集・ゲームの思考」紹介

筑波批評2009夏の内容についてちょっとばかり紹介しようと思います。

塚田憲史「最強論」

現実はゲームだという物言いは批判されうる。それは何故だろうか。

この論は、現実をゲームだと見なす倒錯を不可避的な事態だと見なした上で、「最強に生きよ」と主張する。
ここでいう最強とは、ネトゲにおける「最強厨」やマンガ『最強伝説黒沢』で言われるようなところの「最強」である。そこには、2ch的な、あるいはドストエフスキー的なアイロニー、いや、ダブルシンクがある。
ゲームと銘打ちながらも、ロールズ、サンデル、「地下室の手記」を使いながらの2ch論ともなっている。2chから公共性を考える、と言ってしまうと随分と危うく響くが、その筋道を探し出そうとしている。
付録として、デジタルゲーム論考がつけられており、現実をゲームだと見なす倒錯とデジタルゲームの関係も論じられている。

山本勉「マルチプレイヤーゲームのハードコア――格闘ゲーム・最適戦略・モダニズム

突然だが、筆者にとってゲームとは「複雑性の縮減された世界」を見せてくれるものである。ゲームにはルールがあり、ルールはプレイヤーの選択肢を制限する。ルールによって多様な選択肢の複雑性が縮減され、相手プレイヤーのとりうる行動の予測や、自分がとる選択のコントロールが「かなりの程度」可能になる。この「かなりの程度」という曖昧な境界が、ゲームにとってもっとも重要であると筆者は考える。

この「程度」が、様々なゲームによって一体どのようにデザインされているのか。山本は、じゃんけんや格闘ゲームを例にして論じていくが、その中で、最適戦略へと到達する道のりの中にゲームの快楽を見出していく。
ゲームの面白さが一体何処に宿るのかということを、ゲームデザインから導き出した論である。

山本勉「ドミニオン、拡大生産型カードゲームの夜明けをこどほぐ」

こちらは、ドイツ系ボードゲームの概略を紹介しながら、ドミニオンというゲームが一体どのような点で新しかったのかを論じている。
ボードゲームとカードゲームが、ドミニオンにおいて如何に組み合わされているのか。

高橋志行「跳躍するヒロイズム――ゲームデザインにおける個人の表現」

問:あなたが、あるゲームソフトに登場する、一人の人物だと仮定してみて下さい。その時、そのゲームにおいて与えられる「ゲーム中のあなたが、ゲーム中の出来事に対して及ぼしうる影響力(実力行使でも、社会的権力によってでも構いません)」は、どの程度の範囲だと言えますか? 出来る限り詳細に考えてみてください。

ゲームの世界であれば人は何でも出来るのか。
少し考えてみれば、決してそんなことはないということが分かるだろう。ゲームの世界において自分が一体何を出来るのか、ということは、そのゲームデザインに著しく制限されている。
そのような前提を確認した上で、ゲームは一体どのようにしてヒーローを描いてきたのかについて論じられている。ヒーローについて、物語という側面からではなく、あくまでもゲームという側面にこだわって分析してみせる本論は、ゲーム批評とはこういうものだということを呈示していることだろう。
『ドラゴン&ダンジョンズ』ダンジョンズ&ドラゴンズ*1から『ガンパレードマーチ』まで、アナログ、デジタル問わず論じているのも特徴だろう。

シノハラユウキ「人格の単位としてのパラメータ」

「キャラ」という概念は、いわばオルタナティブな人格モデルになっているのではないか。それはマンガやアニメから析出された概念であるが、それをゲームというメディアにおいて考察した時、どうなるだろうか。
さらにそれは、ヴォーカロイドなどの新しいキャラ文化の考察にも敷衍しうる概念かもしれない。

*1:間違ってました。すみません