『筑波批評2009冬』内容紹介

先日、無事入稿をすまして、今は文学フリマ当日を待つばかりとなったので、内容について告知したいと思います。

想像の涯ての眩暈 シノハラユウキ
世界の中心で亜人 シノハラユウキ
ハイエク『市場・知識・自由』を読む
二〇一〇年代にWebサービスはあるのか? 伊藤海彦
新たなる神の顕現?――2ちゃんねるにおける<神>概念について 藤田直哉

本文96頁、500円
前回の夏号に引き続き、今回もid:YOWさんに表紙を手がけていただきました。
会場は、このかっこいい表紙を目印にして来て下さい。

「想像の涯ての眩暈」「世界の中心で亜人」シノハラユウキ

シノハラによる、だいぶ長めの評論です。
前者は、フィクションにとってのリアルとは何か、
後者は、キャラクター=亜人間にとっての自由と生は可能か、ということをテーマに書いています。
「想像の涯ての眩暈」では、言語哲学におけるフィクションの考えを概観しつつも、言語哲学よりはむしろ西村清和(美学)や伊藤剛(マンガ評論)の考えをベースにして、フィクションをどう捉えるのかということを確認した上で、古川日出男『聖家族』や黒沢清の映画の中から、シノハラユウキなりの「リアリティ」概念を析出しようとしたものです。最終的に、そうした「リアリティ」概念とパースやグッドマンの哲学との接続を試みています。
「世界の中心で亜人」は、冲方丁の「シュピーゲル」シリーズを論じたもので、大塚英志伊藤剛のキャラクター論を手がかりに、「シュピーゲル」における亜人間としてのキャラクターについて考えていきます。その中で、亜人間と戦争、あるいは亜人間とセカイ系の結びつきを笠井潔セカイ系論を参照しつつ論じ、最後には何故かキャラクターのリバタリアニズムというようなものを提示しています。

ハイエク『市場・知識・自由』を読む

筑波批評社で行った読書会の報告レポートを2編、掲載しました。
一つ目は、ハイエクの「個人主義」についてのものです。
ハイエクは、「個人主義」を真のそれと偽のそれとに分けて考えるわけですが、彼の考える真の個人主義にはその名前とは裏腹に、コミュニタリアニズムとの類似を見て取ることができます。彼は、いわゆるリバタリアニズムの祖とも言われていますが、本人はヒュームなどのようなイギリスの保守を自認しています。そのことを踏まえると、彼のいうところの「個人主義」の意味合いが分かってくるかもしれません。どちらにしろ、私たちが普段使うような「個人主義」とはちょっとニュアンスが違います。しかし、このニュアンスにハイエクの政治思想を理解するキーが含まれていることと思います。そしてそれは、現代における様々な政治思想や用語を整理する一助になるでしょう。
二つめは、「価格メカニズム」についてのものです。
ハイエクの「価格メカニズム」についての考え方が、実はちょっとスタンダードな経済学とは違っている。いわゆる経済計画論争の話とも関わってくるのでしょう。つまり、社会主義経済への批判ですね。しかし、彼の考える「価格メカニズム」の話は、知識が如何に伝わり、如何にして個人と社会の意志決定がなされるのか、ということへの考察とも繋がっています。なので、これは単に社会主義か資本主義かという話にはとどまらないわけです。知識の伝達と意思決定のメカニズム、というのは今でいえばむしろ、インターネットを想起させることでしょう。ハイエクの「価格」についての考えは、インターネットにおける政治を考える上でも、有用なアイデアのソースとなりうるのではないでしょうか。

二〇一〇年代にWebサービスはあるのか?

ブログだ、mixiだ、twitterだ、GREEだなんだと、様々なWebサービスが乱立している現在ですが、しかしこの不況の中、どれだけが生き残っていくことができるのでしょうか。現在、Webサービスが直面している問題点と必要な戦略について考えてます。

新たなる神の顕現?――2ちゃんねるにおける<神>概念について

若手評論家、藤田直哉さん(id:naoya_fujita)による特別寄稿です。
説明不要かもしれませんが、藤田さんは、第3回日本SF評論賞選考委員特別賞を受賞しデビューされ、その後ゼロアカ道場に参加しザクティ藤田としてその名を馳せました。筑波批評のUstにも何度か登場していただいていますが、『筑波批評』本誌には初登場となります。
2ちゃんねるを中心としたインターネットに見られるスラングや現象について、社会学的分析でもアーキテクチャ分析でもなく、実存に迫る分析によって論じています。そこでテーマと目されているのは、タイトルからも分かるように現代の宗教性です。宗教の役割の一つが、自らの生やアイデンティティに根拠を与えるものだとするのであれば、ネット上で見られる「祭り」や「炎上」にもそのような意味での「宗教性」があるのではないか。それは、宗教や神という言葉の持つ神聖さからはかけ離れているものかもしれませんが、このインターネットが広く行き渡った時代で生きることとはどういうことなのか、ということの一端を示しているように思えます。