振り上げた拳はどこに行く

お久しぶりです。またもid:klovです。

道場破りの企画については、今度の日曜日に批評社内で選定会議+その内容をUstreamで大公開イベントをやります。そのときまでしばしお待ちください。

しかし門下生道場破り組含め、他の方々のブログを見ているとこちらも何かやらないと忘れられそうなので何か書きます。

道場破りのシステムが発表された当初、どれくらい道場破りを名乗る人たちが現れるのか、どちらが有利なのか、という話がよく出されました。制作費が実費だったり講談社経由の知名度を手に入れられなかったりと、システムだけ見れば圧倒的に道場破り組が不利な気もするのですが、しかし僕達が負っているハンデ、というか違いはそれだけではないのです。

道場破り組は門下生と違いそれまでの関門を突破していないので、同人誌の中にそれぞれの(第三関門の課題である)自著要約を載せる必要があります。正規の課題の場合、自著要約に加えて書評が必要でしたが、道場破り組にはありません。
一見すると道場破り組の作業量が減っているように見えますが、そうではない。むしろいろいろ考えなければならないことは多い。

「批評」は、小説とも学術論文とも違います。特定の文体やディシプリンがあってそれに従えば自動的に批評になるというわけではない。一度僕は自分のブログで「批評とは暴力である」とか書きましたが、それも誰にどのような理由で拳を向けるのか意識しないと、振り上げた拳の行き先がなくなってしまうのです。
なので批評を書くと決めたからには、単なる分析だけでなく、誰にどのような理由でその言葉を届けたいのか、ということをその文章の中に内包しないと、言葉が宙ぶらりんのまま浮いてしまう。

ゼロアカ第三関門の場合、自著要約の他に「書評」という形で、その「誰にどのような理由で」をあらかじめ書かざるを得ないようなシステムがありました。しかし道場破り組にそのシステムはありません。その分、同人誌のコンセプトをはっきりさせることでそういうことをしなきゃならんなーと思い、しかしなかなかこれが難しいと悩んでおります。

ネームバリューのある人の記事、というのも大切なんでしょうが、しかしそれだけでは500部の壁は突破できない。今更ながらの悩みではありますが、しかしこうした悩みは本番その日、文フリ終了のときまで続くのでしょう。




…その前に文フリの抽選通るのか。先日フランス乞食さんと、「どっちか落ちたら『筑波乞食』か『フランス批評社」作って参戦しよう!」とか言ってたのですが、あまり冗談には聞こえないのが嫌ですね。「筑波乞食」はちょっとリアルすぎて避けたいのですが。