ソフラマ、aBreとの合同UST・座談会「キャラクターについて考える」

文学フリマに出る、ソフラマのid:K-AOI、aBreのid:segawa-yと、id:sakstyleの3人で座談会USTをしました。
テーマは「キャラクターについて考える」
ライトノベル読者として、小説の魅力としての「キャラクター」を考えているAOIくんと、エンタメ小説書きとして、物語の関係の中から「キャラクター」を捉えるsegawaくんの対談を通して、「キャラクターの距離感」というキャラクターの魅力について語りました。
ちなみにsakstyleは、人間のようで人間でない亜人間としての「キャラクター」という考え方から、AOIくんの「キャラクター」観に接近できないかと試みました。


文学フリマ告知!

http://bunfree.net/materials/bunfree09-chirashimini.jpg
会場は蒲田になっておりますので、お間違いのないようよろしくお願いします。
筑波批評社は、R−1になります。
新刊『筑波批評2009冬』(内容紹介)と、バックナンバー『筑波批評2009夏』(内容紹介1内容紹介2)を持っていきます。

『筑波批評2009冬』内容紹介

先日、無事入稿をすまして、今は文学フリマ当日を待つばかりとなったので、内容について告知したいと思います。

想像の涯ての眩暈 シノハラユウキ
世界の中心で亜人 シノハラユウキ
ハイエク『市場・知識・自由』を読む
二〇一〇年代にWebサービスはあるのか? 伊藤海彦
新たなる神の顕現?――2ちゃんねるにおける<神>概念について 藤田直哉

本文96頁、500円
前回の夏号に引き続き、今回もid:YOWさんに表紙を手がけていただきました。
会場は、このかっこいい表紙を目印にして来て下さい。

「想像の涯ての眩暈」「世界の中心で亜人」シノハラユウキ

シノハラによる、だいぶ長めの評論です。
前者は、フィクションにとってのリアルとは何か、
後者は、キャラクター=亜人間にとっての自由と生は可能か、ということをテーマに書いています。
「想像の涯ての眩暈」では、言語哲学におけるフィクションの考えを概観しつつも、言語哲学よりはむしろ西村清和(美学)や伊藤剛(マンガ評論)の考えをベースにして、フィクションをどう捉えるのかということを確認した上で、古川日出男『聖家族』や黒沢清の映画の中から、シノハラユウキなりの「リアリティ」概念を析出しようとしたものです。最終的に、そうした「リアリティ」概念とパースやグッドマンの哲学との接続を試みています。
「世界の中心で亜人」は、冲方丁の「シュピーゲル」シリーズを論じたもので、大塚英志伊藤剛のキャラクター論を手がかりに、「シュピーゲル」における亜人間としてのキャラクターについて考えていきます。その中で、亜人間と戦争、あるいは亜人間とセカイ系の結びつきを笠井潔セカイ系論を参照しつつ論じ、最後には何故かキャラクターのリバタリアニズムというようなものを提示しています。

ハイエク『市場・知識・自由』を読む

筑波批評社で行った読書会の報告レポートを2編、掲載しました。
一つ目は、ハイエクの「個人主義」についてのものです。
ハイエクは、「個人主義」を真のそれと偽のそれとに分けて考えるわけですが、彼の考える真の個人主義にはその名前とは裏腹に、コミュニタリアニズムとの類似を見て取ることができます。彼は、いわゆるリバタリアニズムの祖とも言われていますが、本人はヒュームなどのようなイギリスの保守を自認しています。そのことを踏まえると、彼のいうところの「個人主義」の意味合いが分かってくるかもしれません。どちらにしろ、私たちが普段使うような「個人主義」とはちょっとニュアンスが違います。しかし、このニュアンスにハイエクの政治思想を理解するキーが含まれていることと思います。そしてそれは、現代における様々な政治思想や用語を整理する一助になるでしょう。
二つめは、「価格メカニズム」についてのものです。
ハイエクの「価格メカニズム」についての考え方が、実はちょっとスタンダードな経済学とは違っている。いわゆる経済計画論争の話とも関わってくるのでしょう。つまり、社会主義経済への批判ですね。しかし、彼の考える「価格メカニズム」の話は、知識が如何に伝わり、如何にして個人と社会の意志決定がなされるのか、ということへの考察とも繋がっています。なので、これは単に社会主義か資本主義かという話にはとどまらないわけです。知識の伝達と意思決定のメカニズム、というのは今でいえばむしろ、インターネットを想起させることでしょう。ハイエクの「価格」についての考えは、インターネットにおける政治を考える上でも、有用なアイデアのソースとなりうるのではないでしょうか。

二〇一〇年代にWebサービスはあるのか?

ブログだ、mixiだ、twitterだ、GREEだなんだと、様々なWebサービスが乱立している現在ですが、しかしこの不況の中、どれだけが生き残っていくことができるのでしょうか。現在、Webサービスが直面している問題点と必要な戦略について考えてます。

新たなる神の顕現?――2ちゃんねるにおける<神>概念について

若手評論家、藤田直哉さん(id:naoya_fujita)による特別寄稿です。
説明不要かもしれませんが、藤田さんは、第3回日本SF評論賞選考委員特別賞を受賞しデビューされ、その後ゼロアカ道場に参加しザクティ藤田としてその名を馳せました。筑波批評のUstにも何度か登場していただいていますが、『筑波批評』本誌には初登場となります。
2ちゃんねるを中心としたインターネットに見られるスラングや現象について、社会学的分析でもアーキテクチャ分析でもなく、実存に迫る分析によって論じています。そこでテーマと目されているのは、タイトルからも分かるように現代の宗教性です。宗教の役割の一つが、自らの生やアイデンティティに根拠を与えるものだとするのであれば、ネット上で見られる「祭り」や「炎上」にもそのような意味での「宗教性」があるのではないか。それは、宗教や神という言葉の持つ神聖さからはかけ離れているものかもしれませんが、このインターネットが広く行き渡った時代で生きることとはどういうことなのか、ということの一端を示しているように思えます。

リンク

筑波批評2009夏』に記載されているURLを列挙しておきます。

山本勉「マルチプレイヤーゲームのハードコア」

30頁
http://log.laiso.org/20071222.html

珠洲環「犯罪の快楽を肯定する物語たち」

107頁
注10 http://d.hatena.ne.jp/SuzuTamaki/20080608/1212884629
109頁
参照作品一覧
http://isekainovel.web.fc2.com
http://www.onamas.net/

夏コミありがとうございました&通販のお知らせ

夏コミも無事に終わりました。
おかげさまで、新刊も好調な売り上げとなりました。本当にありがとうございます。
さて、このたび発行した新刊は、通販も行おうと思っております。以下の方法でお買い上げいただけます。
http://services.nexodyne.com/email/icon/4ip4KRt%2BWxE%3D/ErsCe9M%3D/R01haWw%3D/0/image.png
こちらのアドレス宛に、送付先の住所と名前をご連絡下さい。その際、タイトルに【筑波批評新刊希望】と入れておいてください。
こちらから振込先をお知らせしますので、振り込みをお願いします。入金を確認後、発送いたします。
金額は、500円+送料250円となります。

「特集・ゲームの思考」紹介

筑波批評2009夏の内容についてちょっとばかり紹介しようと思います。

塚田憲史「最強論」

現実はゲームだという物言いは批判されうる。それは何故だろうか。

この論は、現実をゲームだと見なす倒錯を不可避的な事態だと見なした上で、「最強に生きよ」と主張する。
ここでいう最強とは、ネトゲにおける「最強厨」やマンガ『最強伝説黒沢』で言われるようなところの「最強」である。そこには、2ch的な、あるいはドストエフスキー的なアイロニー、いや、ダブルシンクがある。
ゲームと銘打ちながらも、ロールズ、サンデル、「地下室の手記」を使いながらの2ch論ともなっている。2chから公共性を考える、と言ってしまうと随分と危うく響くが、その筋道を探し出そうとしている。
付録として、デジタルゲーム論考がつけられており、現実をゲームだと見なす倒錯とデジタルゲームの関係も論じられている。

山本勉「マルチプレイヤーゲームのハードコア――格闘ゲーム・最適戦略・モダニズム

突然だが、筆者にとってゲームとは「複雑性の縮減された世界」を見せてくれるものである。ゲームにはルールがあり、ルールはプレイヤーの選択肢を制限する。ルールによって多様な選択肢の複雑性が縮減され、相手プレイヤーのとりうる行動の予測や、自分がとる選択のコントロールが「かなりの程度」可能になる。この「かなりの程度」という曖昧な境界が、ゲームにとってもっとも重要であると筆者は考える。

この「程度」が、様々なゲームによって一体どのようにデザインされているのか。山本は、じゃんけんや格闘ゲームを例にして論じていくが、その中で、最適戦略へと到達する道のりの中にゲームの快楽を見出していく。
ゲームの面白さが一体何処に宿るのかということを、ゲームデザインから導き出した論である。

山本勉「ドミニオン、拡大生産型カードゲームの夜明けをこどほぐ」

こちらは、ドイツ系ボードゲームの概略を紹介しながら、ドミニオンというゲームが一体どのような点で新しかったのかを論じている。
ボードゲームとカードゲームが、ドミニオンにおいて如何に組み合わされているのか。

高橋志行「跳躍するヒロイズム――ゲームデザインにおける個人の表現」

問:あなたが、あるゲームソフトに登場する、一人の人物だと仮定してみて下さい。その時、そのゲームにおいて与えられる「ゲーム中のあなたが、ゲーム中の出来事に対して及ぼしうる影響力(実力行使でも、社会的権力によってでも構いません)」は、どの程度の範囲だと言えますか? 出来る限り詳細に考えてみてください。

ゲームの世界であれば人は何でも出来るのか。
少し考えてみれば、決してそんなことはないということが分かるだろう。ゲームの世界において自分が一体何を出来るのか、ということは、そのゲームデザインに著しく制限されている。
そのような前提を確認した上で、ゲームは一体どのようにしてヒーローを描いてきたのかについて論じられている。ヒーローについて、物語という側面からではなく、あくまでもゲームという側面にこだわって分析してみせる本論は、ゲーム批評とはこういうものだということを呈示していることだろう。
『ドラゴン&ダンジョンズ』ダンジョンズ&ドラゴンズ*1から『ガンパレードマーチ』まで、アナログ、デジタル問わず論じているのも特徴だろう。

シノハラユウキ「人格の単位としてのパラメータ」

「キャラ」という概念は、いわばオルタナティブな人格モデルになっているのではないか。それはマンガやアニメから析出された概念であるが、それをゲームというメディアにおいて考察した時、どうなるだろうか。
さらにそれは、ヴォーカロイドなどの新しいキャラ文化の考察にも敷衍しうる概念かもしれない。

*1:間違ってました。すみません