落選原稿公表―klov編―『「わたし」選びゲーム ――加藤智大完全克服マニュアル――』

id:klovです。筑波批評社も先日シノハラ(id:sakstyle)君がインタビューに行ってきたり、個人の原稿が進んだりと曲がりなりにも、どうにかこうにか、青色吐息進んでおります。
ただその中身を全部ばらすにはちょっと早いので、詳細な内容についてはもう少しお待ちください!

しかしそうなるとゼロアカ必須ツールとも言うべき「xacti」を持たない僕らとしては、ブログに載せるネタがありません。いいとこ前回のようなシノハラ大先生の人生相談(「人見知りが激しいんです…」)(無論彼が相談するほうです)(いや彼のツンデレっぷりはホントにすごい)くらいしかない。
それではPR出来ないので、ほぼ一ヶ月前に行った筑波批評社内における代表者選考会で落選したメンバーの原稿を順次アップしていきたいと思います。
ゼロアカ道場の道場破り組は、第四関門からの途中参加となります。11月9日の文学フリマ当日に売る同人誌には、したがって第三関門で門下生組が書いた1万字の自著要約を載せる必要があります。筑波批評社内の選考会では、メンバー各自が8月17日までにその自著要約をつくり、お互いに読み上げて評価→投票→sakstyleとMuichkine選抜、という流れでした。
現在のメインメンバーは6人なので、他4人も原稿を書き上げてあります。代表者2人のものは当日同人誌のコンテンツとなるのでここでは残念ながら公表できませんが、他のメンバーの原稿は順次このブログにアップしていきたいと思います。

第一陣はid:klovの自著要約です。僕は文芸批評がメインではないのですが、とりあえず付け焼刃なりに無理やり繰り込みました。作品論としてはマンガ『ぼくらの』およびライトノベル版『ぼくらの 〜alternative』の二本のみですが、目下第三関門で東氏が述べていた「宇野常寛力」のようなものを、ある程度意識した形となっています。

では以下その自著要約となります。


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「わたし」選びゲーム ――加藤智大完全克服マニュアル――

                                    

Narration1 「彼方」より遠く離れて

かつてこの国では、「あなた」と「かなた」は同じ「彼方」という漢字で表されていた。
目の前にいる「あなた」の世界と、遠くにいる「かなた」の世界は、一つの「彼方」という文字で結ばれていた。
世界に対する想像力は、「彼方」の二文字で十分だったのだ。

だが世界が複雑化し、「あなた」と「かなた」の世界がどんどんと離れていった。
世界は目の前の「あなた」の世界だけではなくなったのだ。
技術の発達は、世界を縮め、遠くした。

「あなた」と「かなた」が離れ離れになり、私たちは二つの想像力を必要とするようになった。
「あなた」への想像力と「かなた」への想像力。
だが本当に私たちはその二つを手にしているのだろうか。

私たちは、実はどちらか片方の想像力しか持っていない。
「あなた」への想像力か、「かなた」への想像力か。

今こそ私たちは、その両方の想像力をその背中に取り戻さねばならない。
そのために私たちは語る。人間である私たちは、想像力を言葉でしか取り戻せないから。

Simulation1 「わたし」選びゲーム

 社会学者のアンソニー・ギデンズによれば、アイデンティティとは「生活史という観点から自分自身によって再帰的に理解された自己」である。私たちは自分がどういう人間であったか、過去の記憶を整理・捏造した上で「自己物語」として規定する。その自己物語によって、現在の自分を同定し、また未来の自分への 予測を付ける。こうして「自己物語」の過去―現在―未来という時間的連続性が保たれていることを、アイデンティティが保たれていると呼ぶ。
  また同じく社会学者の宮台真司は、かつて「意味から強度へ」というスローガンを掲げていた。ここでは上記のアンソニー・ギデンズの議論にすり合わせる形で話を進める。私たちが作り出した「自己物語」は全てが真実ではもちろんなく、時に間違った記憶や捏造された記憶に基づいてることもある。ただどのような自己物語を作るにせよ、それは完全な妄想でもあってはならない。「私はこういう人間である」という自己物語を作り出すには、自分の人生の中に散らばったいくつかの出来事の中から取捨選別をする必要がある。そしてその取捨選別の基準となるのが、他者からの承認であったり、社会的な承認である。
  宮台の言う「意味から強度へ」とは、意味を求める生き方から強度のある生き方へ、ということだ。「私はこういう人間である」という確固たる自己物語を追い 求める生き方が「意味」の生き方であり、逆にそのような特定の自己物語を求めない、どのような自己物語が代入されようが現在を上手くやりすごせれば良い、 という生き方が「強度」の生き方である。彼がこのスローガンを掲げた著書『終わりなき日常を生きろ』の副題は「オウム完全克服マニュアル」だった。95 年、地下鉄サリン事件を引き起こしたオウム真理教は、その信者の多く、特に犯罪にかかわった幹部たちは、確固たる自己物語=意味を極端に追求する生き方をする人々であった。また彼が当時社会的問題となっていた援交女子高生を「まったり生きる」人間として称揚したのも、彼女たちがオウムのように意味を生きる人間ではなく、強度のある生き方をする人間だったからだ。彼女たちは、家庭や会社といった組織に意味を求めながら、大した承認も無く生きていた。そういった「意味」に負けた人間から、彼女たちは身体を使い、今を上手くやり過ごすべく搾取した。現在を上手く生きているのは、明らかに彼女たちであった。
 いかなる自己物語を代入しようとも、されようとも意に介さず、現在を上手く生きていく「強度」のある生き方。あたかもそれは、目の前に広がる現在の世界をゲームのように捉え、上手くゲームをクリアしていこうとするかのような、ゲーマー的な生き方である。ところが宮台は2000年代に入り、この「意味から強度へ」のスローガンを撤回する。彼が追いかけてきた援交女子高生たちは、その多くが、いわゆる「メンヘラ」になってしまったのが理由らしい。つまり彼女たちは、特定の自己物語=意味をキャンセルし続けることに耐えかねて、今を上手く生きられない人間になってしまったのだ。
 ギデンズの議論に戻る。彼に拠れば、現代社会とは強く自己物語の充実を求める社会であると同時に、様々な 自己物語の可能性を見せてくる社会でもある。結婚し、子供を育て、専業主婦をやって50歳まで生きた女性は、前期近代ならば何の疑問も無くそのまま人生を 全うしただろう。だが後期近代においては、そうした生き方に疑問が呈される。あなたの生き方は本当に幸せだったのか。働かなくてよかったのか。夫のため、 子供のため、ではあなたの人生は? あなた自身の「自己物語」は? このようなアイデンティティの確立の要求は、同時に別の「他にありえたかもしれない 自分」を提示する。しかしギデンズに拠れば、アイデンティティとは「特定の物語を進行させる能力のなかにあるもの」である。つまり例え夫を支え子供を育て ることに尽力した人生であっても、そこに疑問を挟まず、そうした自己物語を進められることにこそアイデンティティ保持の鍵がある。逆に言えば、どのような 自己物語をその人が生きていようとも、それに疑問を挟んでしまった時点で、アイデンティティの保持は破棄されているのだ。
  前期近代においては、自己物語は人生を送っていれば漫然と流れの中で選択できるものであった。現在の「わたし」を承認するのは自分ではなく、社会であり、 そこに通呈する規範や習慣、階級や身分であった。後期近代は、自己物語を自明の下に進めることが出来ず、社会が提示する「他にありえたかもしれない自分」 を考慮に入れた上で、自己物語を再帰的に「選択」していく。私とは何か、私たちとは何か、そういう自己言及的な情報を判断材料にしながら、自覚的に自己物語を、「わたし」を、「わたし」が選んでいく。
 このような社会で、自己物語を選ぶことをキャンセルし、現在を上手くやりすごすこと=「強度」のある生き方をすることは難しい。一方で自己物語を自明視し、「意味」を充実させる生き方もまた困難である。アイデンティティの確立= 確固たる自己物語の保持=「意味」の充実は求められる一方で、その選択肢=「他にありえたかもしれない自分」は数多く提示される。そしてそれは社会が選んでくれるわけでも他人が選んでくれるわけでもない。自覚的に「わたし」を「わたし」自身が選ぶことになる。しかしそもそもアイデンティティの保持が自己物語の中身ではなくそれを自明的に進める能力の中にあったということから分かるとおり、そのような選択の内に根拠は無い。むしろ無根拠に選択を出来ることが 個人にとっては望ましいとさえ言えた。
 後期近代を生きる私たちは、「自己物語」=「意味」=「わたし」の無根拠性に耐えつつ、複数 の「わたし」から、「わたし」を常に選んでいかねばならない。そこで必要なのは、「意味」をキャンセルしながら上手くゲームを進める「強度」ある女子高生 たちのやり方ではない。社会的に共有された基準に沿って、自明のうちに「意味」を獲得するやり方でもない。よりよい「意味」を探すゲームに勝つ「強度」である。「意味から強度へ」ではなく「意味と強度を」なのだ。
 ではこのような社会の両義的な要請に対し、私たちはどのように応えているのだろうか。否、どのように「応えられていない」のだろうか。そもそもこのゲームに勝者などいるのだろうか? 勝者を探すのは難しいが、少なくとも敗者は存在する。

Simulation2 奪われた「わたし」

 社会学者の大澤真幸は、見田宗介の議論を援用しながら、終戦からから1995年前後までを、1970年を分岐点とする二つの時代に分けた。「反現実」が 何を参照項としているかに基づき、前者を「理想の時代」、後者を「虚構の時代」と名づけた。さらに近書『不可能性の時代』において、95年以降の私たちの 社会は、極端な現実へのまなざしと極端な虚構へのまなざしに引き裂かれており、その狭間に「反現実」の参照項となるべきものが隠蔽されている、としてい る。「理想の時代」においては、社会、つまり「現実」は「理想」という「反現実」を参照することで社会に何らかのフィードバックをもたらそうとしていた。「虚構の時代」においてもまた、「虚構」は「理想」の否定形として逆説的に「現実」へのフィードバックをもたらしていた。だが95年以降、私たちの社会は そもそも「反現実」の参照項を見出せない状況にある。この「現実」と「反現実」との絶対的な乖離、参照不可能性に満ちた時代を大澤は「不可能性の時代」と名づけた。
 極端な現実へのまなざしと、極端な虚構へのまなざしの狭間に隠蔽された「X」。それを大澤は<他者>であるとし ている。ここでいう<他者>とは、「上位の同一性の中で決して相対化されることのない絶対的な差異」を持つ人間のことである。二者間にある「第三者の審級」を経由せずに対峙するこの<他者>は、当然コミュニケーションが取りづらい。「現実」へのまなざしでは<他者>を求めながら、「虚構」へのまなざしは <他者>を忌避する。結果、社会から<他者>は隠蔽される。 
 88年から89年にかけて東京近郊で発生した幼女連続誘拐殺人事件。犯人とされる宮崎勤に対する社会のまなざしは、まさしく<他者>へ向けられたものと言えるだろう。メディアはこぞって宮崎の「異常性」に言及した。彼のオタク的な趣味は全て「異常性」の表出とされ、「オタク」は唾棄すべき存在のシンボルとなった。
  「異常」とは、彼の人間性とでも言うべき、人格のコアになるべき部分への、理解不可能性である。「宮崎勤は東京の〜に住んでいる」「宮崎は手に障害がある」などといった言説に還元されない、「宮崎勤」という人間の固有性に対する理解不可能性である。そして「異常性」をめぐってこぞって精神医学者、心理学者が関心を寄せるということは、その理解不可能性にもかかわらず、彼の固有性に対する理解の欲望があった、ということに他ならない。この時点ではまだ <他者>へのまなざしは残っていた。
 97年に発生した神戸連続児童殺傷事件。犯人とされた通称「酒鬼薔薇聖斗」は、「虚構の時代」と「不可能性の時代」の間で両義的な存在となった。宮崎勤は、彼についての「〜である」という言説、前述の用語法で言えば「(自己)物語」=「意味」はほとんどが彼の「異常性」へ還元されていった。「宮崎は〜である」「から彼は異常である」、という風に。もちろん、その間には絶対的な断絶があり、 それゆえに彼は理解不可能な<他者>として現れているのだが、少なくとも社会のまなざしは「物語」=「意味」を経由して、その理解不可能な<他者>へと注 がれていた。酒鬼薔薇の場合は、「〜である」という「物語」=「意味」は彼の「異常性」へと還元される一方で、家庭や学校の問題にも還元された。社会の酒鬼薔薇に対するまなざしは、異常性=<他者>性と、彼の外部とに分かれていた。
 そして08年に発生した秋葉原無差別殺傷事件。社会は宮崎、酒鬼薔薇に続く10年に一度の重大事件であるとして注目した。だがそのまなざしは前二者の場合と異なっていた。犯人の加藤智大の「〜であ る」という「物語」=「意味」は徹底して彼の外部へと還元されていった。「加藤は派遣労働者である」「加藤は非モテである」「加藤はオタクである」といった彼の「物語」=「意味」は、派遣労働者の待遇に関する問題、彼女が居ないことに関する問題、オタクをめぐる言説の問題に還元されていった。社会は加藤に対して<他者>としてのまなざしを持たず、加藤の「異常性」、彼の固有性に対する理解の欲望は唾棄されている。
  社会は確かに宮崎―酒鬼薔薇―加藤のラインに対し、同規模の強いまなざしを注いだ。だがその質はかなり異なっている。宮崎のときにあった<他者>へのまなざしは、加藤のときには失われている。社会は確かに<他者>を隠蔽している。それは加藤自身の目から見れば、自分の固有性を語る言葉を、「わたし」を語る 言葉を奪われている。それらは語られた瞬間、「加藤智大」ではなく彼の外部へと溶け出していく。そして加藤智大自身もまたそのことに自覚的であったようだ。彼が犯行の前に残した「ひぐらしGTAを買っておかないと」という言葉は、自分が犯行を起こした後、残虐なシーンが多いとされる「ひぐらしのなくころに」「Grand Auto Theft」を持っていれば、確実にその情報は「ゲームの悪影響」「残虐表現の規制」という彼の外部社会へと還元されることを、あらかじめ先読みした発言であった。 いまや<他者>は「自己物語」=「意味」=「わたし」を、「わたし」のために語ることを封じられている。その語りは全て自分の外部へと溶け出していく。

Narration2 「わたし」を取り戻すために

私たちは「わたし」をより上手く選ぶためのゲームの中にいる。「意味」と「強度」の両立を要請される社会である。
一方で<他者>と呼ばれた人たち、上位の相対性によって理解できない人たちの「自己物語」=「意味」=「わたし」は、外部の社会へと溶け出していく。
「わたし」を語る言葉は、「かなた」の世界へと直結してしまう。
「わたし」と「かなた」の間に「あなた」は無い。

一方で、「わたし」を語る言葉が「あなた」の世界だけに向けられたものも、また「わたし」から離れていく。
「依存」と呼ばれる症状はその一例である。「わたし」を語る言葉が、「自己物語」=「意味」が全て「あなた」の世界へと回収されていく。
「わたし」を語る言葉が、「あなた」の世界へと直結してしまう。
「わたし」と「あなた」の外に「かなた」は無い。

いずれの場合も、「わたし」をより上手く選ぶためのゲームには勝てない。
「かなた」への想像力だけでも、「あなた」への想像力だけでも、私たちはこのゲームに負けてしまう。
さてこのような難しいゲームに、私たちはどうやって立ち向かえば良いのだろう。

ゲームに勝つには、シミュレーションが必要だ。いくつかの「実験」を繰り返して、その中で勝てそうな手を選択する。
だがこのゲームは現に私たちの社会の中で繰り広げられており、現実を使ってシミュレーションすることは出来ない。
しかしフィクションになら、このようなシミュレーションを非常に分かりやすい形で行っている作品がある。
その名は『ぼくらの』。

「わたし」は「わたし」であると言うために。
「かなた」への想像力と「あなた」への想像力を取り戻すために。
しばし私たちは『ぼくらの』が描く壮大なシミュレーションへと耽溺しよう。

Simulation3 「ゲームオーバー」の地平で

 鬼頭莫宏の『ぼくらの』は、2004年「IKKI」での連載をきっかけに、漫画・アニメ・ライトノベルと、メディアミックスを中心に発展した作品である。アニメ、ノベルは完結しており、原作である漫画版は現在進行中で、完結していない。
  概要としては、あるきっかけで出会った14人の少年少女が、巨大ロボットのパイロットになり、地球を滅ぼそうとする外敵と戦う運命を背負う。この戦い= 「ゲーム」にはルールがある。彼らは敵が出現するごとに、ランダムに選ばれた1人のパイロットが、用意された巨大ロボット「ジアース」に乗って戦う。負けた場合、彼らがいる地球は消滅する。また48時間以内に勝負が決着しなかった場合、引き分けとなり両者の世界が消滅する。さらに「ジアース」の原動力はパ イロットの生命力があてられる。戦いに勝った場合、勝ったほうの世界は消滅しないが、パイロットは死ぬ。パイロットの指名はランダムではあるが拒否は出来ない。
 さらにこの「ゲーム」の敵は、典型的な勧善懲悪モノのように絶対的な悪ではない。彼らの相手は同じ「ジアース」であり、乗っているのは平行世界の地球人である。「ありえたかもしれない私たち」の世界と、彼らは戦わねばならないのだ。この「ゲーム」は、どの可能世界の地 球がより良いものか、「ありえたかもしれない私たち」の「神」による剪定作業なのである。
 前述のギデンズの議論を呼び起こせば、私たちがアイデンティティを保つためには、承認された「自己物語」を元手に過去―現在―未来の時間的連続性が保たれていることが必要となる。しか し、かなり近い将来に死が確定した場合、「未来」の予測が立ちづらくなり、その連続性は壊れてしまう。たとえば末期がん患者などは、病によってアイデンティティを保つことが難しくなるため、それまでの「自己物語」を書き換えるべく、余生をなるべく充実させようと奔走する。「意味」を求めようとする。「ジアース」のパイロットもまた、迫り来る死を前に、どうにか「意味」を充実させることに奔走する。
 しかし彼らが戦う敵は「ありえたかもしれない私たち」であり、ゲームに勝つということはその世界を否定することになる。ゲームに勝つためには、「他にありえたかもしれない私たち」 を否定し、「現在の私たち」を肯定する必要がある。そうしなければ、自らの手で敵対する世界の人間(劇中では約100億として計算されている)を自らの手で殺すことに耐えられない。「自己物語」=「意味」=「わたし」をうまく選び取るゲームに勝つための「強度」を求められている、という点において、『ぼくらの』の「ゲーム」は前章までに見たような、後期近代における私たちが直面しているゲームと相似形であるように見える。
 私たちが巻き込まれているゲームがそうであるように、『ぼくらの』の少年少女たちもまた、「ありえたかもしれない私たち」の世界を否定し、現在自分たちがいる世界を肯定する絶対的な根拠を持たない。ウルトラマンのようなヒーローにも、WTCに突っ込んだ殉教者にもなれない。ヒーローは生き続けなければならないし、殉教者は敵対する世界を絶対的に否定しなければならない。それでも「ジアース」のパイロットたちは、現在の「わたし」を肯定するため、何らかの根拠 を作り出そうと奮闘する。
 「自己物語」=「意味」=「わたし」を肯定する戦略として、彼らは大まかに分けて三つのタイプの戦略をとる。一つは世界と自分が繋がっている、「かなた」と「わたし」が一つの体系の中にいる、ということを根拠に、「わたし」の存在を肯定するタイプである。「かなた」とはすなわち自分の直接認知できる範囲を超えた、三人称で表される世界だ。自分は広大な世界の一部であり、ゆえに「わたし」は今の「わたし」であって良い。このタイプは漫画版の「コモ」「アンコ」が該当する。ただしこの戦略は 「かなた」を、つまり世界をそもそも肯定できなければ今の「わたし」を選び取ることは出来ない。「自分は世界の一部であり、ゆえに「わたし」は「わたし」 であってはダメなのだ」という発想もまた可能である。
 二つ目は、自分と周囲の人間とのつながりを元手にするタイプである。 「あなた」の世界と「わたし」の体系を根拠に、「わたし」の存在を肯定する。「あなた」とはすなわち自分が直接認知できる範囲の、二人称で表される世界のことだ。このタイプは漫画版の「キリエ」「モジ」などがそこに相当すると思われる。ただしこの「ゲーム」において、「あなた」の世界を根拠に肯定された「わたし」は、「ジアース」のパイロットでもある。彼らが「わたし」の根拠を見出し戦いに勝つということは、その世界を、「かなた」を同時に守ることに繋がる。つまり「わたし」を肯定するための根拠となる「あなた」の世界が、自動的に外部の 世界、「かなた」を肯定することに繋がる。「あなた」への想像力が、いつのまにか「かなた」への想像力へとスライドするのだ。この構図はいわゆる「セカイ系」の作品と相似形である。
 以上二つの戦略は、「わたし」を中心に横軸の関係性を元にしたものであった。三つ目の戦略は、 時間という縦軸の関係性を元にする。「わたし」に連なる血統を肯定することで、「わたし」を肯定する戦略である。漫画版の「マキ」、ノベル版の「マコ」が このタイプである。無論、これも自らの身体に流れる「血」を肯定できなければ、「わたし」を肯定することは出来ないという点で、「最強」の戦略ではない。
 ここで一度前章までの議論と接続しておこう。Simulation2で述べた<他者>は、「わたし」を語る言葉を「かなた」に奪われた存在である。一つ目の戦略はこの状態を逆手に取り、その状態であることそのものを根拠に「わたし」を肯定するのだが、先ほど述べたように「かなた」の世界を肯定できないとこの戦略は使えない。 かといって二つ目の戦略もまた有効ではない。そもそも<他者>とは定義に戻るなら上位の審級によって相対化できない人間のことであり、「あなた」の世界を 構築できないからだ。では三つ目の戦略はどうか。自らの身体に宿る時間性を自覚し、それを肯定する戦略。だがそれには<親>であるとか<家>であるとか、 そうした時間性を再帰的に認識させるような「物語」「記号」が必要となる。それらが手元に無い場合、この戦略も使えない。
  つまり、「時間性」を元手にした「わたし」の肯定が出来ない<他者>は、もはや「わたし」を肯定する戦略を持たない。「わたし」無き「わたし」としてしか 存在し得ないのだ。この永遠に報われざる自己否定感は、ゲームの「リセット」を要求する。つまりこうした<他者>になった時点でそれはゲームオーバーなの であり、そして私たちが生きるこの社会は、容易にゲームオーバープレイヤーを生み出す。<他者>に対する理解の欲望は消え去り、社会は<他者>を<他者> のまま、その内に葬り去るのだ。
 さて、これで私たちが直面している「わたし」選びゲームの、「ゲームオーバー」の条件は判明した。では私たちはゲームオーバーを避けながら、どの戦略を取ればよいのだろうか。一番目の「かなた」メソッドか、二番目の「あなた」メソッドか、「時間性」メソッドか。「かなた」メソッドは何度も言うように世界を肯定できない者には使えない。そして「わたし」と「かなた」を結ぶための言葉は、 今や社会科学の言葉が幅を聞かせており、そしてそうした言葉は決して明るい世界を語らない。それらを使って「わたし」と繋がるのは、とても暗い「かなた」 の世界である。その世界は「わたし」を肯定してくれない。不用意に「わたし」と「かなた」を接触させれば、「わたし」を語る言葉は簡単に「かなた」に奪われ、「わたし」を肯定することは出来なくなる。ゲームオーバーへの第一歩である。
 では「あなた」メソッドはどうか。宇野常寛の言う「友達から始めよう」であるが、それが出来るならば苦労はしない。犯罪社会学者の土井隆義の議論を援用するならば、私たちは友達にすら<他者>性を感じるようになってしまっている。「友達」という関係性を守りたいがゆえに深入りできないという「関係性のための関係性」は、相手を上位の審級によって相対化できない<他者>と捉えていることに他ならない。そうであるからこそ、二者関係の中でのみ通じる「関係性」を大事にしたがるのだ。
 そして「時間性」メソッドについても、実に難しい問題が私たちの前には横たわっている。東浩紀が「動物化」と呼んだ現象は、私たちの生活空間から「時間性」を読み込んだ「記号」「物語」が次第に消え行く状態の中で起きている。そのため、自分の中にある「時間性」の認識と言っても、何代も前の祖先の写真、墓などを使って自らに連なる血統、「時間性」 を呼び起こすのは難しい。そうなると、直接の親であるとか、自分の息子といったかなり近い「時間性」を読み込むことになるだろう。
  以上の議論を踏まえると、私たちが取りうる戦略は実はかなり限られてくることがわかる。「かなた」の世界を特に肯定も出来ず、「あなた」の世界にいる人間とそこまでうまくやっていけるわけでもない。そして特に親を強く意識するわけでもないし、息子がいるわけでもない。そんな人間は、実はかなり多くいるだろうし、そういう人々こそこの「わたし」選びゲームの中で苦心している。実は私たちの多くは、「ゲームオーバー」ギリギリのところでどうにか生きているのではないだろうか。

Narration3 「父」より遠く離れて

かつてこの国では、「あなた」と「かなた」は同じ「彼方」という漢字で表されていた。
目の前にいる「あなた」の世界と、遠くにいる「かなた」の世界は、一つの「彼方」という文字で結ばれていた。
世界に対する想像力は、「彼方」の二文字で十分だったのだ。

世界が「あなた」と「かなた」へと分かれていくとき、私たちにはその橋渡しをしてくれる人々がいた。
「あなた」の世界の向こうに「かなた」の世界があることを、教えてくれる人々が。
それは理想である「父」であり、克服すべき「父」であった。

だが「父」無き世界において、私たちは苛烈な「わたし」選びゲームの中にいる。
「あなた」の世界への想像力と、「かなた」の世界への想像力がバラバラになり、奥行きをもってそれらを結んでくれるものがなくなった。

「あなた」への想像力と「かなた」への想像力。どちらか片方だけでは、私たちはゲームに勝てない。
それら二つの想像力を、横に並列すると「セカイ系」となる。では前後に直列させるとどうなるか? 「あなた」の世界の向こうに、「かなた」の世界がある。
「父」無き世界において、「成長」無き世界において、それらの間をどう取り結ぶのか。
最後のシミュレーションへと向かおう。

Simulation4 「わたし」を乗り越えて

Simulation3では、『ぼくらの』の登場人物たち、正確に言うと「ジアース」のパイロットの生き方をモデルに議論を行ってきた。だがそこで得られた結論は、私たちが直面している「わたし」選びゲームは、その完全な勝者以外は実はかなり「ゲームオーバー」に近い状態にあるということ、「ジアース」の パイロットのような戦略は私たちにとって取りづらいものになっている、ということだった。
 そもそも、「ジアース」のパイ ロットはランダムながら近い将来死ぬことが確定している。一方、私たちの大多数はそうではない。とすれば、より私たちに「近い」のは、パイロットの少年少 女ではなく、ノベル版のオリジナルキャラクター「マーヤ」であろう。「マーヤ」という少女は、自分の運命に満足できず、「ゲーム」のルールを悪用して平行世界の地球 を数百と渡り歩き、それぞれの世界を死の星に仕立て上げつつも「ゲーム」には勝つように仕向ける。そうすることで、「ゲーム」を作り出し、それを操っている(と思われる)「神」に抗おうとする。
 いくつもの可能性、「ありえたかもしれない世界」を俯瞰し、死ぬことなく、成長することもなく、ありえたかもしれない「わたし」を選んでいく。まさに「わたし」選びゲームに直面する私たちの姿そのものである。一方で、「マーヤ」は「ジアース」のパイロットの一部からは、まさに「父」なき時代の「父」として機能する。「モジ」というキャラクターは、漫画版『ぼくらの』ではパイロットとして活躍し、戦闘後は心臓移植以外に助からないとされている友人(恋敵でもある)に自らの心臓を差し出す。しかしノベル版では、その心臓病の友人を冷徹な方法で見殺しにする。そして彼と奪い合っていた女の子を、自らのものにしようと画策する。実はこの女の子は「ジアース」のパイロットであり、彼の作戦は徒労に終わるのだが、それをそそのかしたのは「マーヤ」であった。そして物語の後半、彼は「マーヤ」の策略に気づき、逆に「マーヤ」を策略にはめる。
  ノベル版の「モジ」にとって、「マーヤ」は、恋人という「あなた」の世界を完結させてくれる存在であった。しかしその後彼が「マーヤ」の策略に気づいた後は、克服すべき、自らを「かなた」の世界へと突破させてくれる存在となる。「マーヤ」は、「モジ」の「あなた」の世界と「かなた」の世界の間にある「裂け目」なのだ。それは同時に、「あなた」と「かなた」を前後につなぐ、その結節点でもある。
 「マーヤ」は、さまざまな「わたし」を俯瞰し、それらを選択・介入する存在である。それはある意味で世界の根源=世界の中心=システム=神にもっとも近い存在であるといえる。だが世界の秩序を掌握しているわけではないので、当然神ではない。神の視点を手に入れた「かのように見える」似非神であり、そうであるがゆえにモジが「かなた」の世界へと突破するために超克すべき存在であった。
 私たちがもし「マーヤ」のような存在であるとしたら、抗うべきは神ではない。それは「ゲーム」の設定そのものへの挑戦である。そうではなく、克服すべきは、神の視点を手に入れた「かのように」思っている自己である。私たちは、自らのうちに「あなた」の世界と「かなた」の世界との結節点を持ってしまっている。「裂け目」は、自分の中にあったのだ。
 さまざまな「わたし」の可能性を目の前にし、それをうまく選ぶ「ゲーム」。「あなた」への想像力だけでは、「わたし」をうまく選べない。「かなた」への 想像力だけでも「わたし」を選べない。もし「時間性」メソッドが使えなかった場合、私たちは「ゲームオーバー」になってしまうのか。そうではない。「あなた」の世界を突破し、その向こうの「かなた」の世界へと飛び出せば良い。その間にある「裂け目」は自分の中にある。私たちは全ての「わたし」の選択肢を手 に入れているわけではないのだ。「わたし」の想像力を疑え。その想像力の外側にある、偶然性・不条理に目を向けられたとき、世界の結節点を破ることが出来る。「わたし」を選ぶゲーマーとしての「わたし」を相対化したとき、初めて私たちはこの果て無きゲームから一歩抜きん出ることができる。
 この「ゲーム」の敵は隣の友達ではない。それはあなただ。

Narration4 「ゲーム」のその先へ

「ゲーム」の設定を受け入れること。それは単に身に降りかかるあらゆる事象を受け入れて、「宿命的に生きる」ことと同義ではない。
「宿命」の中身は誰も知らない。「これが宿命なのだ」と半ば諦めるようにして生きることは、神になりすました自分が、偶然性を必然性に密かに書き換えていることになる。これは「必然性の密輸入」に他ならない。それは「わたし」を語る言葉を私たちから奪う。

「ゲーム」の設定を受け入れること。それは私たちがニセモノの神になることを諦め、「わたし」選びの泥沼から一歩前進することである。「わたし」を俯瞰しているつもりの「わたし」を超克することである。

「宿命」を捨てよ。偶然なる神を祝福せよ。道は開かれずとも、その足は前に進むだろう。

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