動物より、愛をこめて


 本書は愛についての文章である。愛を知らない人々があまりに多すぎる。ほとんどそのような問題意識から本書は書かれているといってよい。
 ポストモダン以降の「批評」が描いてきた人間性の整理をしつつ、いくつかのサブカルチャーと文学作品を読み込むことで、ありうべき愛による生を描写することを、ひとまず本書の目的とする。

ポストモダンの愛の可能性

ポストモダン人間性、没入と相対化
 さて、ポストモダンとは日本においては一九七〇年以降の社会状況のことを指す。『動物化するポストモダン』において、東浩紀はフランスの哲学者、ジャン・フランソワ・リオタールの「大きな物語の凋落」という概念を援用し、ポストモダンを説明している。「大きな物語」とは、社会の成員が共有することのできる規範や価値観のことであり、近代はそうした共通の基盤によって社会システムが支えられてきた、とされている。しかし、ポストモダンではそれが崩壊する。たとえば政治思想の分野では、一九七〇年以降、マルクス主義はその効力を失っている。
 また、情報化によって、人々はあらゆる判断に対する正当性を得ることが困難になる。ある歴史問題が本当にあったのか無かったのか。あるアイドルに裏の顔が本当に無いのか。人々はあらゆる対象を信じることが困難になる。近代においては、そのような相対主義的な考えは哲学者などの一部でしか認識されていなかった。ポストモダンではそれが一般に浸透し、人々の生活の中においても、あらゆる対象が並列に並べられる。これがポストモダンのひとつの特徴である。

 ポストモダン社会に対応する人間性について、浅田彰は『逃走論』において、ドゥルーズをひきつつ、スキゾ/パラノという分類を行っている。スキゾとは、ある一つの対象や価値観に拘泥せず、そのつどそのつど移動していくようなタイプを指し、パラノとはある対象や価値観に没入し続けるようなタイプの人格類型を指すものだと考えてよい。パラノ的な価値観が支配した近代が終わり、スキゾカルチャー、並列に並べられた対象の前で、ひとつの対象に没入することなく、差異を求めて横滑りしていく時代が到来したと浅田は書いている。
 とはいえ、浅田がスキゾカルチャーを大きくとりあげたのには、近代を相対化するというパフォーマティヴな側面も強い。『構造と力』序文における有名なパラフレーズ、「ノリつつシラけ、シラけつつノる」というのが浅田が想定したスキゾのあり方だろう。それはつまり、ある時には、パラノのように対象に没入する。しかし次の瞬間には、その没入を相対化する。没入と相対化、パラノとスキゾの乖離をバランスよく出力すること。八十年代においてはそのような主体のあり方が注目されていたといえるだろう。

 これはリチャード・ローティのいうアイロニストに近い。この世に絶対の真理はなく、すべては偶然のものだとする考え方をローティはアイロニズムと呼んでいる。アイロニズムは、「大きな物語の凋落」とほぼ同様の意味を持つ、ポストモダンの特徴を説明する考え方である。『偶然性・アイロニー・連帯』において、ローティは、アイロニーだけを持ち、どの価値観にも根ざさなければ、公共的な空間を維持することができないと批判を行う。アイロニズムは私的領域にだけとどめ、公共的な領域ではリベラルとして振る舞えと説いている。
 社会学者の大澤真幸は、ローティによる議論を引き継ぎ、オタクの行動を「アイロニカルな没入」と呼んでいる。オタクたちは、自らが楽しんでいるものがとるにたらない「虚構」であることを知りつつ、アニメやゲームといった対象に耽溺する。ここに見られるのもまた、相対化と没入の乖離である。

「信仰」と「没入」の微少な差異
 ポストモダンにおける人々の生のあり方として、「没入と相対化の乖離」という特徴があることを整理した。没入といっても、その内実にはいくつかのタイプがあるだろう。たとえば、ファンによるアイドルへの没入を例にとれば、そのアイドルを所有したいというタイプと、アイドルをただ応援したいというタイプを考えることができる。前者は、行為がそのまま自己の利益に繋がるものであり、後者は、自己の利益へは直接的に繋がらず、対象への利他性を通じて満たされるような没入である。前者を一般的な「没入」とここでは呼ぶことにしよう。後者においては、自己の欲望はどうでもよく、対象のための行為のみが主体にとって重要となる。これは「信仰」と呼ぶことができるだろう(「没入」をエロスに、「信仰」をアガペーに対応することもできるかもしれない)。岡野昌雄『イエスはなぜわがままなのか』は、キリスト教における「信仰」について次のように書いている。

「私たちは真理、すなわち神と出会うことで自由になれる――それは、神と出会うことで、絶対的なものは神しかない、つまり逆に言えば、すべてのもの(神以外)は絶対ではないと思えるようになるからです。(中略)
 ここには、価値観の転換があります。もし神(真実)以外のものがすべて絶対でないのならば、私たちは神(真実)以外のものに支配されることはありません。つまり、この世のどのような事柄にも(社会的な地位や名誉やお金といったことにも)支配されない、そしてそこに価値を見出さなくなるのです。ここには、確かに自由があると言えるのではないでしょうか。」

 このように「信仰」とは、その対象のみが主体にとって重要なものとなり、それ以外の地位や名誉、承認などへの欲望がどうでもよいものになるというような概念である。「信仰」においては、ラカン的な欲望が主体から消え去る。一方で、単なる「没入」では必ずしもそうはならない。
 「信仰」と「没入」の差異は、「対象のために」という価値をどれほど強く意識しているか、ということになるだろう。「信仰」においては主体の欲望を満たすことは二の次であり、「対象のため」という価値以外は常にどうでもいいものとなる。「没入」においては、主体は欲望をどうでもいいと思うこともあるかもしれないが、そうでないときもありうる。

動物、「信仰」、愛
 ラカン的な欲望をどうでもいいと思うこと。これは東浩紀による動物の定義に重なる。欲望のレベルでは常に降りる自由を担保しつつ、形骸化した形式だけを保持する。一方で、キャラクターやドラマに「没入」することで意味を希求する。東による動物の定義では、小さな物語への「没入」の層と、形骸化した人間として生きる層は乖離している。他方、「信仰」においては両者は単に乖離しているだけではなく、小さな物語への「信仰」を通じて、欲望を形骸化させることが可能となっている。これに対し、「没入」することによって、欲望のことを考えなくなるという意味において、「没入」と欲望の形骸化は繋がっているという反論がありうるかもしれない。しかしながら、「没入」は四六時中可能な概念ではない。常に「没入」が可能になるとしたら、それはむしろドラッグに近い。一方で、「信仰」は常に持つことができる。ゆえに「信仰」においては欲望の形骸化が常に可能となる。
 とはいえ、当然、ではポストモダンに「信仰」はありうるのか、という問いがまず考えられるだろう。本書のこれまでの「信仰」についての定義を整理すれば、「『対象のため』という価値を強く意識することで、自らの欲望を形骸化させること」となる。しかし、アイロニーの前では、ある対象を選んだことに根拠を与えてくれるものは存在しない。であるのならば、アイロニーの前に「信仰」は成立しないように思える。
 アイロニーの前に「信仰」がありうるとすれば、スノビズムとしてしかないだろう。本当は対象を「信仰」してはいないけれど、「『信仰』している」という形式だけを保持する。
 ここにおいて、「対象のために」という振る舞いだけは形骸化して残る。一方で、スノッブであるということは、「信仰」の対象の価値を疑い続けるということでもある。つまり、われわれは「『対象のため』という価値を強く意識する」という形式を保持することはできるけれど、そのことを通じて「自らの欲望を形骸化させる」ことはできない。
 しかし、われわれは常にアイロニーを意識しているわけではなく、ある瞬間には対象へのアイロニーがなくなり、「信仰」が成立するときもあるだろう。ポストモダンにおいて、「信仰」はある瞬間には成立するが、ある瞬間には成立しない、不完全なものとしてしかありえない。一方で、スノビズムとしての「信仰」は、どの瞬間においても存在できる。このようなかたちのスノビズムとしての「信仰」を本書では愛と呼ぶことにする。
 ポストモダンにおいて、「信仰」は、不完全なものとしてしかありえない。一方で愛は完全なものとしてありえるけれど、そこでは、「対象のために」という価値だけが形骸化して残り、自らの欲望を形骸化させるという機能は弱まる。
  ゆえにここでは、「信仰」や「没入」が欲望の形骸化を可能にするという議論にはこれ以上の深入りをしないことにする。欲望の形骸化ではなく、「対象のために」という価値を強く意識するという愛の形式について、本書では詳しく検討していく。

愛の対象となりうるもの
 ポストモダンではあらゆるものが並列に並べられる。だとすれば、あらゆるものは愛の対象となりうるだろう。もちろん、すべてが並列だと知った上で、われわれは「神」を選び取る必要がある。ここにおいて「神」は普遍的に超越性を持った存在ではなく、プライベートな領域においてのみ超越的な存在となる。
 さて、愛の対象となるものはアイドルでもよければ、虚構キャラクタでもよい。家族でも恋人でも地元の友人たちとの共同体でもよいだろう。あるいは自分のこれまでの人生における属性を愛してしまってもよい。童貞であることや非モテであることをそのまま愛してしまってもよいのだ。その愛は自己だけでなく、同じ童貞や非モテたちへともちろん向かう。童貞的なもの、非モテ的なものへも向かうだろう。とはいえ、それが自分の愛する対象以外への敵意になることはない。その愛の対象はすべて偶然によって決まったものだとわれわれは常に意識しているからである。
 また、童貞や非モテで苦しんでいたかもしれない自分を想像することで、苦しんでいる人々への寛容という思想(リベラリズム)を愛することもできるようになるだろう。愛の対象はどんどん広がっていくのだ。当然、複数になることもありうる。

愛とリベラリズム
 リベラリズムは立場可換な自由を重視する政治思想である。これは言い換えれば、価値観の異なる他者に対しての寛容を重視する思想だといってよい。愛の対象、つまりプライベートな超越性を持った人々は、リベラルな連帯に寄与する可能性が高いだろう。偶然性を意識した主体は、絶えず自身の立ち位置を疑い続けるからだ。これは稲葉振一郎のいう「他律的リベラリスト」に近いように見える。「他律的リベラリスト」とは、積極的にリベラルな連帯を啓蒙することはしないが、自身と異なる価値観の人々への無関心を貫くことで、結果的に寛容を実現するような立場である。
 一方で愛を知っている人々は、自分と同じように、しかし自分とは異なる愛の対象を持つ人々と、連帯の感覚を強く抱くことができる。ここには単なる無関心、「他律的リベラリズム」以上の「自由」へのコミットメントがある。

小さな公共性のために
 近代において、公共性は公民であるという自覚を持つ人々によって形成されてきた。
 ところで、ポストモダンにおいては、人々が共有できる大きな価値観は存在しない。したがって、多くの人々がある特定の価値観のもとで「公」を考えるという状況は成立しない。
 一方で、小さな公共性は無数に存在する。ある虚構キャラクタの公共性、童貞の公共性、文学の公共性……といった具合に。その小さな公共性に寄与するのは、その小さな公共性において公民であるという自覚を持った人々である。公民である自覚とは、「ある対象の公共性のために」という意識を持つということである。それはつまり愛だろう。

小さな近代主義
 愛を知ることで、愛の対象それぞれの持つ小さな公共性に、われわれは強いコミットメントをすることができる。また、別の対象を愛する人々との強い連帯の感覚を得ることができるとともに、現代における最低限のマナーとしての他者への寛容も実現される。愛によってわれわれは自由で責任ある主体となることができる。これは現代におけるひとつの成熟のかたちとして提示できるものである、と筆者は考えている。このような主体のあり方を「小さな近代主義者」とこれ以降呼ぶことにしたい。
 近代は何らかの真理や超越性が人々の生を意味づけた時代だった。ポストモダンでは残念ながら、超越性はわれわれの生を意味づけてくれない。悲しむべきことに、愛することも、われわれに生の意味を求めることをやめさせてくれない。われわれはあるときには諦めを抱えて、あるときにはどうしようもない欲望に付き合って、生きていく必要がある。
 しかしながら、愛はわれわれに、叙情を回復させてくれる。そしてそれは、少なくともときどきは、われわれの生に意味を与えてくれるはずだ。

このセカイに愛を
 動物や脱社会的存在と呼ばれる人々。動物における欲望の形骸化についてはここでは考えず、社会的なコミュニケーションや承認の場から疎外された人々という意味でこれらの用語を扱う。何がいいたいかというと、本書はまず彼らに向けて書かれたものとしてあるということだ。
 承認から疎外された人々に、承認にアクセスしやすいような回路をひらくこと。これはもちろん重要な仕事だろう。しかしそれとは違うことを本書ではしたい。
 脱社会的存在が脱社会的なままでも、社会とギリギリの接点を持つこと。等価に並べられたさまざまな対象の前で、ある何かに特別な思い入れを持っている自己を強く意識すること。そしてその対象への愛を持つこと。
 社会に対して諦観を抱えたまま、それでもリリカルに生きていくための希望として愛を語りたい。小さな公共性もリベラルな連帯よりも、本書の望みはそれだけである。

愛の成立条件について、あるいは愛を知るためのカルチャー・ガイド

矢作俊彦『ららら科學の子』、自らの属性を愛すること
 矢作俊彦『ららら科學の子』は主人公が自分のこれまで一貫して行ってきた価値判断に殉じる小説である。その価値基準への愛だけが書かれている小説だといっても過言ではない。
 『ららら科學の子』は、主人公が中国から日本に帰ってくるシーンから始まる。主人公は全共闘世代の生まれで、学生運動にコミットしている。機動隊との闘争の中で彼は殺人未遂に問われ、中国へと密航する。文化大革命下放をへて、三〇年ぶりに彼は日本に帰還する。そして、変貌した東京をひたすらさまよう。現在の東京に彼は三〇年前の面影を探すが、求めていたものを見つけることができず、中国に残した妻のもとへいくことを彼は決意する。
 主人公は、たとえば長嶋の犠牲バントを嫌う。指名手配が自らにずっとついて回ることに、満たされる。夢の島のカフェで苦いヴェトナム式のコーヒーを飲んだ主人公の独白を引用しよう。
「ヴェトナム式のコーヒーは苦かった。メニューを見ると、普通のコーヒーも置いてあった。珍しいものを頼んだことに後悔はなかった。
 自分から望んでしたことに、後悔などしたことはない。義父は不思議がったが、中国に来たことにも、莫賓にいることにも、無念な想いはなかった。それを疑うこともなかった。(中略)
 ここで、ゆっくり変化を享受しながらきたらどうだったろう。そうしたらこの埋め立て地のビーチパラソルの下でヴェトナム式のコーヒーを飲んで、後悔したと感じたろうか。」
 ここに書かれているのは、自らの価値判断への絶対的な信頼である。自らの価値判断の結果、利益が得られなかったとしても、彼にはどうでもよいのだ。彼は内なる倫理、つまり価値基準にしたがって、アメリカンコーヒーよりもヴェトナム式のコーヒーを選ぶ(もちろんここには学生運動を生きた主人公なりの価値基準が見られる)。その結果、苦かろうがなんだろうが何も関係ない。「アメリカンコーヒーではなくヴェトナム式のコーヒーを選ぶ」という行為を行うことだけが彼にとって重要である。それはつまり、彼の内なる価値基準への信仰、愛と呼べるものだ。

 少し個人的な(つまり筆者自身の)話をしよう。筆者はこれまでいわゆる「もてない男」としての人生を歩んできた。幸い友人たちには恵まれ、それなりに楽しい「もてない男」人生を歩んできたと思う。ゆえに筆者は「もてない」とか「童貞」といった属性を個人的になかなか好ましいものだと思っている。筆者はそれらを愛しているといっていい。ゆえにたまたま訪れたカフェテリアに、童貞コーヒーとアメリカンコーヒーがあれば筆者は迷わず童貞コーヒーを注文するだろう。その結果非常に苦い思いをしてもまったく問題にはならない。「個人的に正しい」価値判断をできたことに筆者は喜びさえ感じるだろう。

 さて、『ららら科學の子』において、主人公が犠牲バントを嫌うのは、「勝つ」という目的のもとに、個人の価値判断を犠牲にしているからである。指名手配がついてまわることを喜ぶのは、三〇年前に彼が機動隊員から辱めを受ける女子学生を救うために行った機動隊員への殺人未遂を、彼が「個人的に正しい」ことをしたと思っているからである。主人公には学生運動を生きた彼なりの審級がある。その審級がプライベートな超越性となっている。彼はそれを愛しており、ゆえにその審級に沿った価値判断さえ行うことができていれば、自身の欲望はそれほど重要ではなくなる。
 このように『ららら科學の子』の主人公は、自らの人生におけるいくつかの属性を愛することで「小さな近代主義者」として振る舞うことができている。

ヒカルの碁』、アイロニーに抗って
 『教養としての<まんが・アニメ>』において、大塚英志は、手塚治虫梶原一騎のマンガを例にとり、少年マンガにおける成熟の困難さを指摘している。『鉄腕アトム』『巨人の星』『あしたのジョー』に共通するのは、父によって成長を禁じられてしまう主人公という特徴だと大塚はいう。「記号的表現がいかにして成長を描くか」という困難を大塚は「アトムの命題」と呼んでいる。
 少年マンガにおける一般的な成長には、あるルール下における競争の中で強くなるというモデルが一般にあげられるだろう。『ヒカルの碁』におけるヒカルもその例にひとまずは漏れることはない。
 自己中心的な子どもであったヒカルが、佐為という天才棋士の幽霊をはじめ、多くの人々と出会うことで、棋士として力をつけていく。それと同時に、緊張の中で心を落ち着ける術や、大人たちとしっかりとコミュニケーションをとる能力を身につけていく。少年マンガにおける非常に一般的な成長のモデルをほったゆみは描写し、ヒカルはやがてプロ棋士となる。
 プロ棋士となったヒカルに名人との碁を見せた佐為は、やがてその役目を終え現世を去ってしまう(ように読める描写がなされる)。佐為を失ったヒカルは、自らのためだけに碁を打っていた自分を恥じるようになる。もっと佐為に碁を打たせてやりたかったと後悔をする。そうして碁を打つことをやめてしまう。というより、自分が「自分のため」に碁を打つのは佐為に対して申し訳ないと思うようになる。一方でヒカルには碁を打ちたいという思いがある。自分のために打つのではなく、院生時代の仲間である伊角のために打つという説得に応じて、ようやくヒカルは一戦だけ自らに碁を打つことを許す。
 ここに見られるのは、自らの欲望の暴力性に対する嫌悪である。自分が「自分のため」に碁を打つことが、碁を打ちたかった佐為に対する暴力になりうるのではないかとヒカルは考えている。ゆえにヒカルは碁を打つことができない。
 これはあらゆる人の生において言えることだろう。何かを手に入れることは、持たざる誰かに対して暴力としてはたらいてしまう可能性を持つ。その持たざる誰かを強く意識するとき、われわれは何もできなくなってしまう。というよりも、何もしないことこそが倫理となる。
 ほったゆみはそのようなヒカルにひとつの解答をあたえる。伊角との対局の中で、ヒカルは自分の打った手に佐為の面影を見つける。自分が碁を打つことが、「佐為のため」になりうることをヒカルは知る。その後、ヒカルは碁を打ち続けていく覚悟を持つようになる。
 ほったが『ヒカルの碁』において書いたのは、「誰かのため」の可能性についてである。「誰かのため」とはすなわち本書で定義した愛に他ならない。棋士としてのヒカルの成長は、どこまでいっても「自分のため」のものであった。しかしながら「自分のため」だけでは、自らの行為が誰かに対する暴力となる可能性に思いを巡らせるとき、われわれはアイロニーの前に立ちすくまざるを得ないだろう。
 ここで描かれた「誰かのため」の可能性は、愛がアイロニーに抗うためのひとつの回路になりうるということに他ならない。「小さな近代主義者」であることは、否定神学的な態度に抗うことを可能にしてくれるのだ。
 このようにヒカルが自らの碁の中に佐為を見つけるシーンは、単に物語のレベルで優れているだけではない。ポストモダン状況の中で近代的な「成熟」を描けなかった戦後マンガ史が、愛を知ることで(「巧く生きる」のではなく「善く生きる」をことで)、「小さな近代主義者」としての成熟を描くことのできた奇跡として、われわれはこのシーンを読むことが可能である。
 さらに『ヒカルの碁』の最終巻においては、われわれはただ生きているだけで、過去のためになっている。ゆえに、われわれはただ生きているだけで誰もが過去に対する愛を持っている。生きているだけでわれわれはみな愛を知っているのだという、人々の生をそのまま肯定する力強いメッセージを見ることができる。

過剰性による愛の表現と匿名の承認
 最後にニコニコ動画の話をしよう。ニコニコ動画における基本的な楽しみのひとつは、虚構キャラクタが伊藤剛的な「キャラ」から遊離していく二次創作を楽しむ点にある。そこには必ずしも虚構キャラクタへの愛があるというわけではない。「没入」や消費といった方が近いタイプのキャラクタへの接し方の方がおそらく現在は多いだろう。しかしながら、キャラクタへの愛を表現している動画制作者も多い。ここでは『アイドルマスター』の星井美希というキャラクターを中心にMADを制作しているwhoPについて考察しよう。
 『アイドルマスター』は基本的には育成ゲームであり、その目的はトップアイドルを育成することにある。その副次的な要素として、アイドルとプロデューサの恋愛も描かれる。もちろん、キャラクターとのコミュニケーションを目的にゲームをプレイすることもまったく間違いではなく、そのような想定も当然バンナムは行っているだろう。
 しかしながら、この二つを両立することは『アイドルマスター』においては困難である。トップアイドルを目指すためには、一度に育成するアイドルの数は多い方が有利となる。しかしながら、特定のキャラクタとのコミュニケーションを求める際には、複数のキャラクタを選択せず、一人を選択して育成を行った方がよい。『アイドルマスター』ユーザにはこうしたジレンマを抱えている人も多い。whoPもその一人である。
 もちろん、彼は星井美希のみを選択してゲームをプレイする。その説明については彼のブログエントリを参照してもらいたい(http://miki-memory.jugem.jp/?eid=268#sequel)。
 また最近では、これまでまったく絵を描いてこなかったwhoPが、時間というリソースをさいて、美希の絵を大量に描いている。whoPはもちろんこれまで美希の動画作成に膨大な時間を費やしている。それは彼にとって問題にもならないことなのだろう。
 また、彼は通称「七夕革命」という、『アイドルマスター live for you』における隠しコマンドの発見に対して失望を表している。この隠しコマンドにより、以前より格段にMAD動画作成が簡便になった。これは喜ぶべきことでもあるのだが、一方で、動画作成にかける時間と手間によって表現をしてきたプロデューサーにとって、このコマンドの登場はあるスタイルの終焉を予感させるものであったのかもしれない。
 さて、手間と時間をかけてあるキャラクタの動画をアップロードし続けるという素振りは何をあらわすのか。それはつまり、「自己のため」を犠牲にした「キャラクタのため」という態度に他ならない。より正確にいえば、そのキャラクタの動画を多くの人が見て新たなファンが増える可能性がある、キャラクタに新しい設定が加わるといった、「キャラクタの公共性のため」という態度である。とはいえ、その行為が実際に「キャラクタの公共性」になっているかどうかはわからない。重要なのは、それが「キャラクタの公共性」に寄与する行為だという確信のもとに動画をアップロードすることだ。
 あるキャラクタ(アイドルでもなんでもよいが)への愛を、一貫性と過剰性によって表現すること。愛とはギリギリまで対象にこだわったスノビズムであり、その表現を担保するには過剰さが有効である。
 そのような表現を通じて、われわれは「承認」を得ることもできるのではないか。価値観の異なる「他者」とのコミュニケーションにおいて、「この私」の承認を得るのではなく、匿名空間の中で、同じキャラクタを愛する人々と、「あなたも同じキャラクタを愛しているのですね」という目くばせのようなもので繋がること。
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 社会的なコミュニケーションから零れ落ちてしまった人々が、コミュニケーションにコミットしないまま得られる「匿名の承認」。もちろん、それは社会的コミュニケーションにおける承認とも両立するだろう。それでもコミュニケーションから疎外される人々が一定数は存在するとすれば、前者の、「匿名の承認」を得られる環境を整備することで救われる場所はありうるはずだ。その萌芽のひとつとしてニコニコ動画はあげることができる。もちろん「匿名の承認」は「ニコニコ動画」に固有の特徴ではなく、たとえば「ふたばちゃんねる」にも、とうぜん「2ちゃんねる」においても考えることができるだろう。このようなシステムを整備することで、承認の供給を増やすことができるのではないか。
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 愛を知る人々によるつながりを可能にするアーキテクチャにおいては、われわれが何かを愛しているという事実そのものが祝福される。われわれはここに愛による新たな可能性を見ることができるのではないだろうか。この問題提起とともに本論をしめたい。