ゼロアカって何?

現在、文学フリマに向けて『筑波批評』を制作中の日々です。
僕たち道場破り組は、事前に提出しなければならないので、そろそろ〆切が近づいてきた感じです。
そんなわけで、どんなことをやっているのかということを、もう少しお伝えしていけたら、と思っています。
とはいえ、何かすごくキャッチーでクリティカルな一言でまとめることも出来ず*1
あるいは、こんなすごい人と対談しちゃったぜ、という企画があるわけでもない*2
なかなか頼りない雑誌です*3
しかし、何の考えもなしにやっているわけではありません、当たり前ですが。
僕たちは僕たちなりに、『筑波批評』が作る流れを、送り出したいと思っています。
今回、『筑波批評』はゼロアカ道場という企画に参加するわけですが、そもそもゼロアカって何なのか。
もとはといえば、まさにこのゼロアカ道場企画を行っている、講談社の太田氏が考案した言葉です。ゼロアカ道場のページを見に行けば、「ゼロ年代のアカデミズム・ブーム」と書いてありますが、それが一体何を指しているのかはよく分かりません。
もちろんこの言葉は、ニューアカという言葉が参照されています。これは80年代に、浅田彰中沢新一柄谷行人などといった人たちの著作がヒットしたことを受けて作られた言葉です。
ということは、つまりゼロアカというのは、東浩紀の著作のヒットを受けて、ということなのでしょう。
ゼロアカというのはブームなので、送り手と受け手がいるわけです。送り手が東浩紀だとするならば、受け手は80年代生まれを中心にした人たちでしょう*4
ゼロアカって何なのか。
つまりそれは、東浩紀の著作などに影響を受けた、主に80年代生まれの人間が、ブログなどを通して何か色々と言い出すようになった、という状況を指すのでしょう、おそらく。
そしてそれは、それなりの広がりを持っているのではないだろうか、と僕は思っています。
けれども、このゼロアカという言葉は、何となく萎みつつあります*5
何となくオタク文化論とその周辺の文芸評論、という感じです。
あるいは、社会学まわりの言説は、何となくロスジェネ・ニート的なものに収束しつつあります。
しかし、
もうちょっと、色々な広がりがありうるのではないか。
もう少し領域を拡大して、議論していくことができるのではないか。
ゼロアカ道場は、大体今年か来年の頭には終わるでしょう。
ゼロ年代も、来年が最後の1年です。
けれど、議論は続いていくし、言説は広がっていくはずです。
筑波批評』はこの流れに棹さしていく媒体でありたい。
興味深い議論、注目すべき言説はまだまだあるはずだし、
それを生産している人たちは確かにいる。
筑波批評』によって、それらを流す流れを作りたいと思っているのです。
もっとも、
そのために必要な戦略や振る舞いに関しては足らないところが多いでしょう*6
ですが、
現在揃えている
コンテンツによって
流れを
示します
ゼロアカってこういうものだろ
みたいな

*1:宇野常寛力が足りない!

*2:宇野常寛力が足りない!

*3:宇野常寛力が足りない!

*4:別にこの世代に限定するわけではありません。他の年代の生まれの人も当然含まれるでしょう。

*5:個人的には、ゼロアカという「言葉」がどうなろうと構わないといえば構わないのですが

*6:宇野常寛力が足りない!!