飲みに行ったり、筑波批評社についてだったり

20日に、ゼロアカ道場門下生である藤田さんが主催する飲み会へ行ってきました。
ゼロアカ道場門下生は、藤田さん、井上さん、村上さん、峰尾さん、道場破り組は、坂上さん、山田さん、しろうとさんが来ていました。
ゼロアカ道場参加者以外の方も、何人かいらっしゃっていて、結構盛り上がった飲み会でした。
筑波批評社からは、sakstyle、klov、K-AOIの3人で行ってきました。Muichkineは、院試を控えていたので行けませんでした。


しかし、飲み会レポートというのも、何を書けばいいのかよく分かりませんね。
村上さんと坂上さんが、初対面であるのにもかかわらず、顔を見た2秒後には、ものすごく熱く語り合っていたこととかが、印象に残っています。
そういえば、藤田ビデオに撮られるんじゃないかと、怖れたりしていたのですが、撮られませんでした。
どうも前回のコミケ飲み会の反省に基づき、藤田ビデオの撮影は今回控えたそうです。


筑波組は、かのつくばエクスプレスに乗って帰らないと行けないので、他のみなさんより早くにお暇することにしました*1
で、秋葉原駅の長い長いエスカレータを走って、なんとか終電に駆け込んだところ、飲み会参加者の1人からメールが来たのですよ。
「濱野さんがきた」
何ですか、そのサプライズは。
濱野さんが来るって知ってたら、終電逃しても残ってましたよ。


何だか、何の面白みもない飲み会レポートですね。
飲み会そのものは面白かったわけですけど、飲み会での面白さをブログに書くとか、難しいですよね。
だから、飲み会のレポートはこんなところにして、ちょっと筑波批評社について、なんか書いてみようかなと思います。


以前、批評家の福嶋亮大さんのブログに、筑波批評社について言及してもらったことがあります*2
そこで言われたのは、何でこんな奴が同じ大学に何人もいて徒党を組んでいるのか、ということでした。
そしてこのことは実は、他の方にもよく尋ねられていることでもあるのです。
色々な方にそんなことを言われるにつれて、僕自身ようやく、この筑波批評社という集団が、特異なものに見えているようだということに、少しずつ気付いてきました。
確かに、このメンバーが一つ処に集まっているということは、多くの偶然と幸運によるものです。僕はそのことを、単純に喜ばしく思っています。
しかし一方で、そこまで特殊なことだろうか、ということについては、何ともいえないなと思っています。
僕たちのほとんどは、大学の文芸サークルで出会いました。
例えばこれは、同じく道場破り組のフランス乞食のお二人もそうだとうかがっています。
で、この文芸サークルというのも、そんなに特別なものではないです。小説を書きたいと思っている人は、いつでもどこでも、ある程度の数がいると思うのですが、そういう人たちが集まっています。
文章を書くことがそれほど苦にならない人間なわけです。
そして、そういう人間は、ネットを見渡せば沢山いる。ブロガーと呼ばれる人種ですね。事実、僕たちもブロガーだったりします。
問題は、批評と呼ばれるような文章を書いているか否か、なのかもしれませんが、そもそも、批評とそうでない文章を明確に区別することってどれくらい可能なのでしょうか。
僕たちは、筑波批評社などと名乗っているわけですが、自分たちの文章が一体何なのかということは、現在必死に手探りしている状態でもあるわけです。
徒党を組んでいることが、特殊に見えるのでしょうか。
でも世の中には、同人サークルなんて沢山あるじゃないか、とも思ってしまうわけなのですが。
もし仮に僕たちが多少なりとも目立っているのだとすれば、個人的には、それほど好ましい状況ではないなあと思います。いや、あの、ゼロアカ道場的には、目立たないとまずいのですが。
つまり、文章を書きたがる奴なんて一杯いるんだから、どんどんみんな出てくればいいのに、ということです。
同人誌作るのも、ブログ書くのも、とりあえずはそれほど大変なことではないのだから、どんどん作ったり書いたりすればいい。
そして、僕たちがそんなことを言わなくても、それはもう沢山行われているはずだと思うのですが。


なんだか、とりとめもなくなってきました。
あともう少しだけ、メンバーの話をして終わりにします。
僕たちは確かに、かなり趣味嗜好が近い。けれど、それなりに違いはあります。
例えば、sakstyleは、高校時代から東浩紀を読み始めた、東フォロワー(ないしは劣化コピー(笑))なわけですが、
一方のMuichkineというのは、決して熱心な東浩紀の読者ではないのです。むしろもともとは、安部公房とか読んでいたのです。
うーん、ますますとりとめもなくなってきました。
これ以上書き続けてもどうしようもない気がしてきたので、一度切り上げようと思います。


といいながらも、最後にもう少しだけ。
読んでいる本が違っても、話は通じたりすると思います。
ですが、共通に読んでいるような本というものは、ほとんど見つけることができない、ということは痛感します。
そこでどうやって、話を通じさせていくか、とか、同じ本を読んだりするか、というのが、筑波批評社的な集団が出来うるかどうかのポイントだったのかもしれません。
思えば僕は、批評とは何かなんてことは、20数年間考えたことなんてないのですが、自分の周囲にいる面白い人たちとどうやって面白い話をしていくか、みたいなことは考えてきていたように思います。

*1:僕たち以外にも、早く帰った方はいるのですが

*2:http://blog.goo.ne.jp/f-ryota/e/f5cb6b928b3c7f96494d06b571c13775