文フリ当選しました!そして自己紹介

始めまして。
先日、筑波批評者内の選考会によって代表に選ばれましたid:Muichkine こと塚田憲史(つかだけんじ)です。

今まで同人誌では、この本名を使って活動してきたので、今回もゼロアカ用の正式な名義は塚田で行こうと思っています。

これでサークル筑波批評社からの参加者は相方のid:sakstyleことシノハラユウキと合わせて、シノハラ・塚田ペアということになります。遅いスタートとなりましたが、よろしくお願いします。

さて、文フリ当選し、参加が正式に決定したということで、苦手(というか下手に饒舌になりすぎると、後で恥ずかしくなるのが嫌)なのでここまで引き伸ばしてきたのですが、自己紹介でもしてみます。

道場破りに課せられた課題である、ゼロアカで出版する著作を想定した一万字の自著要約では、断章形式の小説(春樹から舞城そして携帯・2ch小説まで)について、ボルヘスの言うところのバベルの図書館、つまり網羅的なデータベースを背景に読み込むなんてことを書いていこうと考えています。まあ、そういうつまんない感じのことをマジメにやろうとか思うのは、まさにゼロから、自分が読んできて感銘を受けた小説たちを語りなおしたいと思うからです。

最近2ちゃんねる東浩紀スレ(哲学板にあり、そこではゼロアカ道場に関した書き込みも盛んになされているようです)に書きこんで、議論させてもらった中で考えたことがあります。
僕は意味分からないと言う勇気と、意味分からないで終わらせないで、そこからもう一度語りなおせる力がほしい、そしてみんなに持ってほしい。それがゼロから批評を立ち上げなおすということじゃないでしょうか。

それは歴史をなぞることになるかもしれない。抜け落ちてた歴史をなぞり、たとえば誰かの言葉を、やっぱりこの人はすごかったんだと捕らえなおすことに繋がるかもしれない。嫌な言い方をすれば、「しか繋がらない」とも言える。もしかしたら今回の自著要約で紹介したい試みも、たとえば東さんの行ってきた仕事に直結する、もしくはなぞりなおすことにしかならないのかもしれない。

圧倒的な軽さが僕の武器であり、弱点なのです。僕らはすでにそういうことをしてきました。たとえば前回、春の文学フリマで売り出した『筑波批評2008春号』ではローティを読み直すことで、「あえて」という言葉使いを捕らえなおす機会を得ることができました。

それは確かに歴史を把握している人からすれば劣化コピーじみて見えるのかもしれない。それが読書量や批評なるものの空気を吸ってきた時間に比例するなら、確かに僕らはスタートの地点から出遅れているのかもしれない。すでに読書量が多い人間には到底適わないのかもしれない。

僕自身、途方もなさにめまいを感じます。ただ、僕がくじけないのは、今まで生きてきた時間を振り返ってみたときに、歴史を手に取る時間を増やしていくべきだったのかという問いに、はっきりとノーと答えられるからです。僕は自分史の糞くだらない細部に愛着を持っていてその細部を別のものに換えたいとは思わない。それに、蛸壺化した社会の中で、異なった経験を生きてきたはずの他人は、誰も僕を馬鹿にすることはできないはずだ、そして僕も誰かを(歴史や専門性を盾に)馬鹿にすることはないだろう。こういう言い方はコンプレックスを取り去るための単なる心理学的な合理化なのかもしれません。だけど。

今、もしかしたら批評を一番真摯にやれる時代なのかもしれない。

2ちゃんねるmixitwitterはてな等のネットサービスの隆盛によって、僕らの日常的な言葉が批評の言葉と同一平面上に送信されるようになってきた。こういう状況では、何かを誤魔化しながら言葉を発するよりも、むしろ正直にやることが一番得になるんじゃないか。

そう考えて、僕はやっぱり先に書いたような希望を持つわけです。ゼロから、ゼロでも、というのは、今からやる、やれるということだと思うのです。

うーん、やっぱり筑波批評社はみんながみんなこういう中身が無いポジティブな告白みたいなものばっかするからキモイんだよなあ、と自嘲しながらも、まあ、ともかく。こういう自分の中のベタさの暴露を自己紹介に換えて、よろしくお願いします。