自分の原稿について紹介してみる

文学フリマの公式サイトでも、配置図とサークル紹介が公開されました。
筑波批評は、B-62です。
このサークル紹介文では一体何が何だか分からないわけですがw、こちらを見ていただければ、どんな冊子か分かるかと思います。
それにしても、このサークル紹介のラインナップを見ていると、面白そうなサークルがだーっと並んでいます。ゼロアカ道場ゼロアカ道場と言っているけれど、文学フリマにはゼロアカ道場なんかよりも面白いサークルがあるんじゃないのか、っていうかあるだろ、と思ってしまいます。
さてこのブログは、『筑波批評』の内容紹介・宣伝ブログということなので、とりあえずまずは、自分の原稿から紹介していこうかと思います。

フィクションするとは一体いかなる行為か

これは、ゼロアカ道場側から課せられたルール

道場破り参加者は、必ず、同人誌のなかに、参加者2人それぞれの「ゼロアカ道場を終えたあと講談社BOXから出版したいと考えている著作内容の要約」(10000字程度)を入れてください。

というのを受けて、書かれたものである。
フィクション「を」語りたい、フィクションとは何かということを明らかにしたい、ということがテーマとなっている。
そのために、フィクションを作品ではなく行為として捉えて、論を進めてみることにした。
ここでいうフィクション行為というのは、フィクションを受容する行為とフィクションを制作する行為の両方を含んでいる。
つまり、フィクションというのは、その受容と制作においてなされているところにその本質的なものがあるのではないか、ということだ。
作品や作品に描かれている世界・出来事の方には、あまり軸足を置かないようにしている。
内容は、大きく二部構成となっている。
第一部では、『テヅカ・イズ・デッド』における「キャラ」概念を中心に据えている。
「キャラ」とは、単なる線と色の固まりではない。私たちはマンガを読むときに、単なる線と色の固まりを見ているのではなく、その固まりを「キャラ」として見ている。
単なる線を「キャラ」として見る、という行為は、差し当たってはマンガにおいてのみ行われる行為だが、これはフィクション全般にも拡張しうる考え方なのではないだろうか。
第二部では、瀬名秀明デカルトの密室』における語り手と視点人物の関係を中心に据えている。
この作品は、ロボットの心について扱っているが、それと同時に、小説の登場人物の心についての問題提起ともなっている。小説における語り、というのは瀬名がこの作品以前より抱えていた問題であるが、『デカルトの密室』はそれに対して一つの答えを示唆しているに思える。
小説における語り/語るという行為、そしてその語りを読むという行為とは、どういうものなのかということを考察している。


小説もマンガも映画も、同じくフィクションであるならば、同じように語ることはできないだろうか、ということ。
その際に、オースティン、グッドマン、三浦俊彦といった英米哲学系を参照すること。
これらが目標としてあって、それらはある程度達成されている。
しかし、色々と不満な点、不十分な点もあると感じている。宣伝なのにそんなことを書くなよ、と思われるかもしれないが、この文章はこれからの叩き台として使っていきたいとかも考えていて、そういう意味でガンガン読んだり叩いたりしてほしいと思っている。
もちろん、この1万字はこの1万字だけで完結して読めるものとして書いたつもりであるが、一方でこれから書くことになるかもしれない本の要約という一面ももっているのであり、今後さらに発展させていきたいという考えが書かれているということである。

兄弟という水平面/擬似的な垂直性

ダブルブリッド』と『スカイクロラ』について論じた、短い評論。
これら2作品に加えて、『スパイラル〜推理の絆〜』『コードギアス反逆のルルーシュR2』にも短いながら言及している。
書かれている内容は、ほぼタイトルによって言い尽くされている。これらの作品では、兄弟が親子より注目されて描かれているのではないか、ということである。垂直的な関係よりも水平的な関係を重視しているのではないか、と。

工学の哲学序説

工学や技術の哲学というのは、最近何となく注目されてきている分野なのではないかと思っている。
テクノロジーというのは、世界の見方を変えてしまうし、できることを増やしてくれる。それに対応して、哲学というのもまた変化しうるはずである。
工学や技術の哲学の流れというのは、科学哲学から派生したものとして、組み上げられているところなのではないかと思う。つまり、工学や技術の哲学といえば、あの哲学者やあの本のことを指すのだろうなあ、という大雑把な合意が出来つつあるのではないか、と。
今回、その流れの中に、ぐいと東浩紀をねじ込むことはできないだろうかということで、書いてみた。
いわゆる工学や技術の哲学というものと、東浩紀の哲学というものは、それなりに異なっているものだとは思うのだが、東浩紀が何かにつけてテクノロジーに拘っているのは事実だと思うし、彼の哲学にはテクノロジーがもたらす変化というものが組み込まれている。であるならば、東浩紀の哲学を、工学や技術の哲学の中に位置づけることも可能なのではないだろうか。