塚田執筆原稿の紹介「フラグメンタルアプローチ」「&LOVE」

10.19事件を胸に刻んで今後はあのような醜態をさらすことのないように努力したいと思う塚田です。

さて、その10.19事件の起こった早稲田大学で行われた「批評と小説をめぐる十時間連続公開シンポジウム」の感想と絡めて、『筑波批評2008秋ゼロアカ道場破り号』に書いた自分の記事の紹介をしたいと思います。
僕はあのシンポジウムのポッド2「日本小説の現在」(http://www.nicovideo.jp/watch/sm4993134)を受けての感想を2ちゃんねる哲学板の東浩紀スレッドにこのように残しています。

814 名前:塚田 ◆eJG9ZF8X5I [sage] 投稿日:2008/10/20(月) 14:40:21 0
渡部さんの話は至極まっとうだったな。
若い作品から困難さが伝わってこない。(渡部さんの話ではそれは描写を尽くすことだ)
それでいてかつて前衛的だったはずの、前衛的だと信じられてきた形式だけが頻繁に現れてる。

東さん(あるいは前田塁+)に言わせればそれは圧倒的な速度の中で生き残ることだけが問題となる環境の問題で
ゲーム的リアリズムメタフィクション的な作品を
あえてかつて前衛的だった小説、筒井、公房あるいはボルヘスだったりを参照することなく分析してみせたのはそういうことなわけだ。
それは僕も完璧に同意する。

ただ東さんは、そこには別の困難さがある
たとえば2chでスレを盛り上げるのは描写を尽くすのとは別の困難があって、両者の間でどちらが知的かを判断することはできない。
と言うのだけど。僕はもうちょっと絶望していて。
確かに困難さなんてねーよなあと、バリエーションのスープの中から面白いと思われる作品が選ばれるときに
別に困難が伴おうが伴うまいが無関係に選ばれるのに、誰がわざわざ困難な道を選ぶのかと。
そこにはただただ選ばれなかったという心理的な苦悩だけを抱えたワナビーが大量に生まれるだけだろうと。
それはゼロアカ道場も同じことでさ。

816 名前:塚田 ◆eJG9ZF8X5I [sage] 投稿日:2008/10/20(月) 14:44:45 0
いくら作品の背景には事後的には選ばれなかったという苦悩が積み重なっているとしても
作品、シンポで使われてた言葉に従ってエリクチュールとかっこつけてもいいけど
エリクチュールの表層にはそれは現れてこないわけでしょ、そしてその作者に視点をずらしても同様に困難さは現れない。
ただただ楽観的な作者がそこにいるだけだ。
困難さは背景の大勢の無能たちに分散されるわけだけど、それを果たして批評で汲み取ることができるのだろうか。

引用内のエリクチュールは正しくはエクリチュールで、こんなところでもまた僕の無教養っぷりを晒して煽られることになってしまったのですが、そんな無教養な僕がこの問題に先んじて一から真剣に考えた結果が『筑波批評』に書いた「フラグメンタルアプローチ」だったりします。

僕はポッド2を面白いと書いたのだけど、それは自分の問題意識にどんぴしゃだったからで、実はこの感想はある意味で批判的なものです。僕は藤田さん(ゼロアカ門下生)のように(http://d.hatena.ne.jp/naoya_fujita/20081019/1224437938)つまらないと言う気はないけど、「まっとう」だと書くのもそれに匹敵するぐらい失礼なことだと自覚しています。
僕が「まっとう」だと書いて、藤田さんが「遅い、つまらない」と書く、この古い文学観に対して、我々がどのようなアンサーを返すことができるのかが問題だと僕は考えています。説明責任は僕らにある。

僕の回答は、シンポでまとめられていた現状認識、前衛と意識しない前衛小説、描写のないヌーヴォーロマンが生まれてくる理由に肉薄しているつもりです。

舞城王太郎の作品『九十九十九』と『好き好き大好き超愛してる』からメタフィクションから偽メタフィクション(『好き好き大好き超愛してる』の偽メタフィクション性についてはブログで記事を書いている。
http://d.hatena.ne.jp/Muichkine/20070806/1186392739)への転換を読み取る。もしくは星野智幸の『無間道』をとってきて、そこに擬似的なループ構造を読み取ってもいい。
もちろんこれらの作品を「ゲーム的リアリズム」と呼んでもいいのだけど、それでは先に進めない。僕はこれらの構造を擬似的なものと捉えることから始めたのです。

するとその背景に網羅的なデータベースが存在することがわかります(どういうことかは本文を読んでください)。これは断章形式をとることで一つの断章の入れ替え可能性に意識的になるがゆえに生まれたものだと僕は考えました。

網羅的データベースとは、ボルヘスがその短編「バベルの図書館」で紹介したアイディアに拠ったものです。ある単位に限られた文章の有限の文字列のあらゆる組み合わせは有限のパターンによって取り付くせるということは、気づいてしまえば当たり前に見えるが一見すると驚愕に値する事実です。

もちろん、ある見方を採用すれば、このようなアイディアは無意味なものになります。バベルの図書館には一種のトリックが隠されていて、実現可能性がないどころか、まったく無意味な夢想でしかないことは、僕も承知しています。

ただしそのアイディアは作家を苦しめ続ける。書かれうるものはすでに書かれていてどこかにあるはずだという意識は、作家を無意味な存在にしてしまいます。その上で何が書けるのか。

たとえば舞城王太郎はどのように展開したか、『好き好き大好き超愛してる』の後に書かれた『SPEEDBOY!』という作品は、『好き好き大好き超愛してる』にかろうじて見られた擬似的な構造すら抜け落ち、各断章が上下関係のない相互的な符号によって結ばれた作品となっています。これは一つの回答でしょう。網羅的データベースを逆手にとり、各断章間の連続性を解体することで、今までであれば書き得なかった文章を書くことができる。

同じく最新作の『ディスコ探偵水曜日』や前田司郎『誰かが手を、握っているような気がしてならない』では、結局断章形式をとらないような作品においても「フラグメンタルアプローチ」の射程は届いていることを確認できます。

一人称を使い、人称や焦点のブレを通して、自己同一性を解体したり、他者の視点を混同したり、独我論的なモチーフに繋がるような最近の似非ヌーヴォーロマン、困難さがない前衛小説の背景にあるものを僕は読み取っている。
そのためには普通の文学者が嫌うようなアイディア、つまり書かれうるものは書かれていて、作家なんて必要ないというアイディアをまずは受け入れる必要があったのです。

また、作家性が抜け落ちているように見えるケータイ小説VIP板の報告スレで行われているようなリアリティフィクションにも僕の論は整合的です。これらを単にCGM的想像力と言って終わらせないだけの説得力ある批評が「フラグメンタルアプローチ」のパースペクティブで可能だと考え、それを実際に利用してみせたのが「&LOVE」という文章です。ここでは、第3回ケータイ小説大賞を受賞された『あたし彼女』と、ニコニコ動画で人気の初音ミクオリジナルソングの歌詞/替え歌空間について、文体にもストーリーにも依存しない新しい読みを試みています。

僕は専門家ではないのでこの二つの論文「フラグメンタルアプローチ」「&LOVE」それ自体が、美文でもない、先行文献を挙げることもない、困難さがない文章です。
しかしながら、読んでしまったら、今の時代の文学について言及する際には無視できない論文が仕上がったと自信を持っています。では当日、この紹介で秋葉原で『筑波批評』を手にとってもらえることを期待して、終わりにしたいと思います。